昭和51年06月01日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心の稽古をしに来るのである。良く稽古をして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ、御かげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨ておいて参って来ることはできぬ。まめな時にここへ参って信心のけいこをしておけ。」
この御理解は頂きようでは、どう言う風にでも頂けれると言う感じです。日参り夜参り、えばしなくても良いと言う風にも頂けますし、かと言うと、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと言う処になると大変難しい。難しいと言うか何でも無い時に、本気で信心の稽古をしておけと言う事になるのです。ところが何かを少し感じた。これはお願いせにゃいけんとか、お参りしてお伺いしなければならんとか、すると例えば尻に火が着いた様な感じでお参りどうかあるから参る。何かお願いせんならんから参る。
と言うのが多いのではないでしょうか、そう言う事ではいけないね、普通何でも無い時にしっかり信心の稽古をして置けと、言うならば平穏無事の時にしっかり信心の稽古をして置けと、だから私はその後者の方後の今申しました、常平生何んでも無い時に一生懸命、信心の稽古をして置くと言う事は、これはお徳を受けると言う生き方だと思います、又自分の都合の良い時、例えば家に病人があったり又は日傭取りやらがあろうと言う事は、まぁ毎日が忙しい人はと言う事ですね。
だからそう言う人はなかなか毎日参って来る訳にはいかん。と言う風な頂き方はやはり、御かげを頂くための信心だと言う風に思いますね。折角信心をさして頂くなら、ひとつ本当にあの世にも持って行かれ、この世にも残して置けれると言われる、御神徳を頂く為には何でも無い時にひとつ御かげを頂かして貰う。昨日月末の御礼神話会でした。皆さん色々発表なさっておられます中に、椛目の宮崎さんが発表しとられました。もう本当に何十年合楽に椛目合楽を通して縁を頂いておられる方ですけれども。
今度ほどしかも夫婦が力をかなえてね、一生懸命にそれこそ、一心を立ててお参りをした事は無かったと、もう今まで知って居った解って居る事がです、今度はいよいよ解って居るだけでは無くて、何とは無しに自分のものになったと言う感じだとね、親先生が何時も言われる様に、はぁ先生さぁどうしましょうかと言った様な、飛び込みで参って来んならん様な時に、先生がはぁ良かとこ手を叩いて喜びなさると、私共は実は今度はそう言う事でした。
もうそれこそ真剣な、もう本当にもう真剣にならにゃあ居られん事柄で、夫婦の者が朝参り昼参りる夜参ると言う様にして、一ヶ月間お参りをさせて頂いて居る内に、親先生は何時もそれこそ、あんたどんがそげんして参って来よったちゃ、手を叩いてまぁ嬉しい事だ喜ばしい事だと言われたと、そしてひと月通わして頂いて、親先生が言われる通りの事になった事が、まぁ有り難いと言う意味のひと月の体験を話して居られます。そりゃもう話を本当の話を聞くならば、親として子供の事ですから。
もうほんなこて身の毛のよだつ様な話しばっかり、けどもそう言う時に本気でのお参りが出けて、今まで解って居った信心が、頭だけで解ったのでは無い。言うならずうから解ったと言う感じ。昨日久留米の佐田さんの夕べお参りして見えて、お知らせを頂かれた事を、御取次ぎ頂いての事を発表して居られましたが、まぁ久留米の佐田さんと言やぁもう、それこそ合楽で手本の様に言われて、又事実一家を挙げて、あれだけの信心が出けておられます。
けれどもねそのお徳を受けると言う事がね、こう言う信心すりゃこう言う風な御徳が受けられると、言う事が頭で解っただけじゃいかん、五体全体で解らなきゃいけない、と言うお知らせを頂きましたが、まぁ本当の答は解りませんけれどもと言うて、その事を発表して居られました。ですからやはり何かそこに難儀な問題と言った様な時には、ほんなら病人が寝ておろうが、毎日例えばなら宮崎さんなんかが、なんか夫婦であれだけ、もうそれこそ何丁からの田んぼをなさっておられますから。
とても暇などん普通で言うならある人達じゃないけれども、さぁいよいよ自分の子供の事になったり、さぁそこに難儀をいよいよ感ずると言う事になったり、もう周囲からはもうそれこそ、どんどん人が心配して言うて来て下さる。又は電話が掛かって来る、もうそのひと事ひと事を頂いてもです、もう本当にあのうまぁじっとして居られないと、言った様な事ばかりでしたけれども、合楽にお参りすると、親先生はもうにこにこ笑いござると言う感じなんです。
まぁそこに一縷の望みを持ってです、親先生があぁ言うて頂くけんと言うので、まぁ一生懸命の信心をさせて頂いて、始めて一生懸命のいわゆる頭うからの信心が出けてね、これからは言うなら御願い参りではなくて御礼参りに、こう言う信心を打ち立てて行きたいと言う、まぁ内容の御話しでしたね、いわゆる難儀を通して本当な事が解った。だからそこ迄はね、いわば御かげを頂く信心ですけれども、御礼参り言うなら信心が解る事が楽しい、信心が頂ける事が有り難い。
佐田さんじゃないけれど頭だけでお徳とは、こんなもんだこう言う風にして頂くんだと解って居るんじゃなくてです。もう身体全体で解らして頂くところの、信心を頂く事の楽しみ喜びと言った様なものがです、私常平生何んでも無い時でなからなければ、本当は頭に入らんと思うです。自分の苦しい事ばぁっかりね、昨日はちょうど皆さんが発表中に停電でした、ちょうど三十分間切れてました。ちょうど今朝から私がお知らせ頂いた通りになったと言うてまぁ話した事でしたけれども。
沢山のお参りがあってる御大祭があっておる模様です、それにまぁそのう久富繁雄さんが副祭主をしておられる、沢山の先生方と一緒にお祭りを仕える、その繁雄さんの装束の素晴らしい事素晴らしい事、もう本当に今でも眼に残って居る様な素晴らしい、普通の装束ですけれども、もうその着付けの素晴らしい事、そう言うまぁお知らせを頂いた処が、その電気が停電しておる、そこで私がもう三十分ばかりすりゃあ、時間がまぁ三十分あるからその間に御かげ頂きゃいいじゃないか。
と言うとる中にもう真っ暗になってしまった、けれども時間はまだあるから、そして御かげを頂けば良いと言う様なお夢でしたが、こりゃ丁度こりゃぁ私が今朝から頂いた通りの様な事なと言って、まぁ暗墨の中にローソクでそのお話しを進めさせて頂いたんですけれどもね、又それから私は皆さんに言った事でした。昨日安藤さんのお父さんが、今度の宅祭りを頂いて、もう今までに無い大変な感動を受けられた。もうあの開扉のある時なんかは、それこそもう本当に神様と一体になった様な縮む様な思いをしたと言う。
これは実感ですよねと言うあのう発表をして居られましたが、私があちらのお祭りに参りましてすぐ頂いたのが、あの不動、様不動明王を頂いた。次には有髪のハマ的な、言うならばここで言われるね、みんなが総取次ぎ者だと言う、自覚に立って信心を進めて行けと、金光様の先生の資格は持たんけれども、神様から許された資格を持って、人が助かって行く様な、それこそ何十年間信心を続けられただけでも。安藤さんの場合はもう、感心に値する。
あぁ言うまぁ言わば、もうそれこそその前後に神様の働きと言わなければ、思わなければ居れない御かげを、頂いて行くからでは有るけれども難儀のね連続であった。今日だってやっぱ連続である。もうそれも普通の者んならもう投げ出してしまうごたる難儀である。そう言う中にあっても、神様を疑うと言う様な事が微塵も無い様な感じで信心を進められたと言う事、これがやっぱり不動と言う事であった事だろうとこう思います。只今なんかはもう本当に親子三人、現在親子三人であんなさいますが。
親子三人がそれこそ勢を揃えて、しかも同じ願いに三人の方達が、あのうここで親子三人御取次ぎを願われる時に、もうこれは本当にもうこげな有り難い事は無いと思います。親子三人がですね、しかも中心のその勇次君、息子さんが真ん中に座って、真ん中で一日の御届をざぁっとされるんですね。その足りない所を御両親がこうされる。そしてこう残られて今度はお母さんが、毎日家で言うならば御取次ぎをなさって居られる。信者さんの御初穂を出して、そしてそのあすこ迄参って来る訳なんです。
それでその御取次ぎを願われる。もう本当にその信者ではありながら、もう支部の働きと言うよりも教会の働きが、まぁ出けて居られる様な感じであるね。そこで安藤さん達あんた達夫婦、一辺私しゃ今朝がた御夢で頂いた様に、そのあなた方装束を着けなさるなら似合うごたるけん、一度装束を着けさせて頂く、装束を着ける事に憧れが生まれる位の信心を致しなさいと私は申しましたね。そりゃまぁ貴は装束を着けなさるなら、甘木の初代親先生に良う似とりなさるですよちゅうて話した事でしたね。
不思議な事です、自分が本当に装束でも着けさせて頂けると言うか、本当に取次ぎ者としての自覚が出けるとです、信心が変わって来るです、それには今日例えてここで申しますと、七十一節から感じる受ける感じです。金光様の信心と言うのは、そんやぁやぁ言うて参らんでん、都合のある時にはお参りせんでん、良か信心と言う様な頂き言う様な風にも頂けるし、かと言うとです、もうよくせきの事の無い限りはと言う事になりますね。まめな時ここへ参ってと言う事は。
どうか有る時は仕方が無いけれども、普通でない普通である時ねまめな時信心の稽古、何んでも無い平穏無事と言う時に、本気で信心の稽古をしておけと言う、信心の稽古と言うのはです、やはり私はね本当に御取次ぎ頂いて、そしてその御取次ぎを頂いた事を、又人にも取り次がせて頂ける様な稽古を又、でなかなければ出来る事ではない。こりゃまぁ毎日検証させて頂く時に思うのですけれども、やはりあの苦労は苦労だ、とこう思います事はね。先生方が一日日々の御理解を把握して居る。その把握し具合と言うか。
それを又発表し具合いと言うか、又それを自分の信心で、まぁアレンジすると言うかして発表致しますが、なるほど流石にあのプロだなと言う感じがします。ですから銘々がプロの気持ちにならせて頂いてですね、人に伝えて行く事が運命だとね、しかもそれが信行だと。この頃あの石井さんが言っております様に、とにかく二分でも三分でも良いから人に、おかげを日々頂いて居る事をね語って行く。それは神様へのお礼の信行だし御礼だけではないそれが行なんだと。言う頂き方にならせて頂く所からです。
おかげが頂けるね、これはもうしいら元気ではいけませんから、もう本とに自分の心の底から、本当に我取次ぎ者として総取次ぎ者と、只言って居るだけじゃ無くて、本気で取次がせて頂く。そんな何を取次がせて頂くか、一日信心の稽古をさせて、生まれて来る体験一日御取次ぎ頂いて、頂く御教えそれを人に伝えて語って行く様な、御かげを頂かして貰わなければいけない。
昨日北野の中村さんが親子連れで参って見えてから、「先生私はもうこの頃頭ん毛が抜けてから、もうこげん頭が禿げたごとなってしもうたからね、一万円ばっかり出しゃ鬘があるじゃろうから、どうでんその鬘を被って来るち思います」じゃん(笑い)処があんた、この人どんが年の行っちそげな被っちからち言うけれども、いいや合楽の親先生は若う、女子じゃからな好かっしゃらんち(笑い)だからそのどげなもんでしょうかち、まぁ言われたんですけれども。
しかしもう八十ですからねぇ、八十で鬘被ってからそれこそ黒々とした、その髪どん結うち合楽に参ろうて言う、その元気がね私は有り難いと思う。その元気で参っち来りゃ、頭禿げたち良かじゃんち私申しました事でしたけれどもね、夕べも佐田さんの御取次ぎを願うた或る方がです、最近頭の毛がまだこの方は若うしち抜けよる。それでそのどう言う御神意か、伺うて呉れと言う事だったからと言われるから、もうそりゃ信心が抜けよるけんて神が抜けよるけんたいね。
と言うてまぁ話した事でしたけれども、どうしてじゃろうかとその理由が解っただけじゃ出けんて、本当に自分が信心が抜けておるなら、自分方の家ででも良いから、「ほんなら大祓い信行やりよんの」「やりよりません。」そうでそれで信心がその抜けてこうね、例えば自分方の家でお参り出けんでも、そりゃ遠方ですからね、本気で信心の修行させて貰はなければいけませんよと言う風に、まぁ申しましたがね、自分の言わばこの信心が抜けて居ると言う様な事をまぁ思います。
この頃自分の信心が何処かおかしいと言う時には、いわゆる本気で信心の稽古をする楽しみが無くなって居る時ですから、昨日は久留米の信愛会の通知が来ておりましたが、不思議な事です。あちらでも今度会合がある、教師の会合があります中で、今度は大祓信行を皆んなで集まってするから、みんな出て来てくれる様にと言う事、もう今頃大祓信行てんなんてんとこはまず無かですけれどもね、やはり合楽のそれが移とっとじゃろうと思うです。まぁ大祓信行なんて言うとはもう全国でうちだけしか有りません。
そればってやっぱぁあれだけの人が集まるし、あれだけの人が助かって行くから、こらぁ大祓信行が良かばいちゅう風に、まぁ思われたじゃなかろうかと思いますね。例えば他所の方達ですらが、そう言う風に合楽の信心を、まぁ言うなら真似しようかと言う事になって来よります。昨日ちょうど学院に行っとります、戎浦さんが手紙を寄越しておりますのにも、永井肝四郎先生が教導の方を受け持って今おられるそうです。そして「おかげの泉」を持ってテキスト代わりに合楽の信心を教えて頂いたと。
始めて御本部に来て、本当に合楽の信心がこんなに素晴らしいと言う事を、遠くに来て親先生のお話頂けなくなって、始めて有り難いと言う事が解りだしたと言う事を書いております。だからそれを昨日研修の時に末永先生に全部に読ませてから、もうあんたどんが又、御理解聞かにゃあならん、又研修に集まらにゃあならんと言う様な事じゃけんの、けれどもこりゃ実感だろうと思うんです。ですからそれをねあのう遠方に行かなきゃ、何かなからなければ一生懸命になれないと言うのでは無くて。
平穏無事の時に一生懸命になれれる、言うならば御礼参りで信心の稽古が出来る様なね、おかげを頂かなければならない。ちとでも合楽の言うならば真似をしようかと言う位に、合楽の信心に言うならばある意味羨望の的を向けてある。その中で信心の稽古をさせて頂いて居る私達がです、本気でねなら大祓信行なら大祓信行にでも取組ませて頂いて、その生き生きとしたその心を持ってです、何時もまめな時にここへ参って信心の稽古をしておけ。平穏無事の時に真からの御礼参りをさせて貰うて。
そのお礼参りの帰りに頂くところの御かげの言うならば信心のお土産、これはもうそのまま自分に入って来る。心配とか苦しい時には、心配苦しみがいっぱいですからなかなか入らん。それこそ宮崎さんじゃ無いですけれども、とてもあれが教えを頂いていなかったら、ひと月間夫婦であぁして一生懸命お参りして参っただけであったら、やはり心配だから参ったに過ぎないだったでしょう。
けれども参って来るたんびに先生がね、それこそ手叩いて笑いなさる。はぁ先生があぁしてござるところを見ると、こりゃ心配はいらんぞと言いながら稽古をしたところにです。今まで何年間頭で解っとった信心が、このひと月間で言わば解った様な感じがすると言うて発表しとられます。それが言うならばまぁ佐田さんが頭で解るだけの、言うなら御信徳信心では無くて、五体全体で解らして頂く、御信徳を受けて行く信心を体得して行かなければいけないと言う風に思います。
いよいよ六月に入りました、今月は壮年部の大会が御座います。やはり三百名から居ります。ずうっと拾い上げますと三十五歳以上の男性の方ね、まぁどれだけの方が集まられるか解りません、けれどもそれこそ毎日の様にもう本当に遅う迄、その事の検討があっております。もう皆さん本当にもう一生懸命に、その事に取り組んでおられます。もうそれこそ合楽の御比礼に掛けてと、言った様な感じがするんです。
恐らくはその会合が終わりましたら、今度は婦人部が又思い立つ事でしょう。又青年部が思い立つ事でしょう。そして一年後に控える記念祭又は本部で。この六月十五日から金光教の大改革と言われる、新発足の信心が展開されて来ます。そう言う御本部の願いを合楽風に受けて、私はいよいよ信心を進めて行く、それはおかげを受ける信心から。今日皆さんに聞いて頂いた。
いよいよね御礼参りの信心から、御礼参りの信心によって体得するところの楽しい、有り難いお徳を受けて行く信心を身に着けて行く、と言った様な信心を内容として。ひとつ会合がひとつ盛会裏に御かげ頂かなきゃならんと言う風に思うております。皆さんもどうぞ今からまだ日にちが決まって居りませんけれども、まだ確定はしてないのでしょ、七月になる。七月四日になって居るそうですが、講師に伊万里の支部長である所の竹内先生に、お願いをしようと思うて居ります。
それであのうとにかく、壮年部の方達で合楽に縁を頂いて居る限りの人が、その日はどうでも一日、もう休ませて頂くと言う様な心積もりをです、今からしてお互い話し合って、そしていよいよ壮年としての信心を、本当の信心を頂く心準備を作って頂いて置きたい。「六月ではな七月」だそうですけれども、七月の早々の事ですから、今月からそう言う準備が為されなければならないと思います。
どうぞ宜しゅう御かげ頂いて下さい。